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沖縄本島から南西三百二十キロの位置に宮古島がある。この島の中心平良市街地から二キロ南に久松部落がある。戸数五百余の集団部落で 半農半漁を生産している、五勇士はこの土地で生まれ育った若者たちである。
日露戦争たけなわの明治三十八年五月二十五日宮古島のはるか沖合を進行しつつある大鑑隊を沖縄と宮古を往復して商売をしている舟子達が発見。漲水港に舟をつけると、宮古島庁に駆けつけ大艦隊発見の顛末を報告した。ときの島司橋口軍六は事の重大になる驚きを機に失せず島庁
久貝徳三著「久松五勇士」の表紙職員警察署員各村頭らを招集して緊急会議を開き一刻も早く大本党に急報するための通信施設のある石垣島に「早舟」を出す事に決定、白羽の矢は久松松原の区長垣花善に立てられ、ときを移さず 垣花善に対し命令が下った。垣花は橋口島司の命令とも懇請ともつかぬ頼みに聞き入っていたが事が国家の危急存亡に関する重大事でしかも一刻の猶予も許されないことを察し不安な気持ちではあるが即座に承諾した。数メートルの刳舟で八十哩離れた石垣島迄漕出す事は熟練の漁師でも冒険なことで死を意味するものでした。垣花善は死を共にす者は身内と相談するしかないと決し、弟従兄及び友人一人を呼んで事情を説明協力を求め次の四名が共鳴し協力を誓った。垣花清、与那覇蒲、与那覇松、与那覇蒲、垣花善を含め五名で二十代の若者たちである。垣花善と清は兄弟、与那覇蒲と松も兄弟そしてこの四名は従兄同士で字松原出身与那覇蒲は久貝出身であった。いよいよ命令を受けて翌二十六日、五名の勇士は重大な使命を双肩に担い、橋口島司の激励を受けて大勢の人に見送られ大泊から出発した。サバニに運命を託し互いに励ましながら石垣島へと力漕ぎ続け出発から二十数時間かけて翌二十七日早暁石垣島白保海岸に到着、綿のごとく疲れた体で二人を陸路から通信施設のある、石垣に向け偉駄夫のように走り続け敵艦見ゆ、の電報を打電せしめ大任を果たした。当時としてはとても想像も及ばぬ偉業を見事に成し遂げたのである。「敵艦見ゆ」の電報は哨鑑信濃丸からも打電され、三笠鑑上の連合鑑司令官には信濃丸の電報が一時間早く届いたといわれている。「ああ遅かりし一時間である」
昭和十一年日露戦争三十周年記念式典が挙行されるに当たり海軍者をはじめ各方面から感状表彰状、銀杯その他記念品が五勇士のよせられたが、それによって「久松五勇士」の名はいよいよ全国津々浦々にまでとどろき賞賛の的となった。久松五勇士については明治の古い話で五勇士も既に他界しており久松部落では忘れられていたが、終戦になってその行為が戦争協力者として責任追及を恐れて各方面から受けた感状表彰状、銀杯その他の記念品を焼却した遺族もいたが、本土復帰とともに各方面から五勇士の顕彰碑を建立すべきとの声が高まり久松学区の有志が建設期成会を結成して、出発地点である大泊の小高い丘に「久松五勇士顕彰碑」を建立、昭和四十一年八月十一日来賓及び学区民多数出席して盛大に除幕式を挙行した。

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